心理学・脳科学と民法改正(情報提供義務)

弁護士村本 武志

 「マジカルナンバー7プラス・マイナス2」は、米国の著名な心理学者ジョージミラーの1956年の著作論文名の一部。論文名は、これに続く「人間の情報処理の容量制約について」で終わる。ミラーは、人間が受け入れることができる情報の容量には一定の制約があり、この制約は7つだという仮説を述べる。
 脳の特定領域の神経細胞(ニューロン)が活性化すると、その領域への血流量が増加する。機能的磁気共鳴画像法(fMRI)は、鉄分を含む血液の成分であるヘモグロビンの量的変化を捉える。これにより、選択肢情報を増加させると、一定のレベルで。人の合理的・情緒的思考を司る背外側前頭前皮質の活動が停止し、不安やフラストレーションの抑制が効かなくなり暴走することが分かる(Angelika Dimoka)。また、意思決定に際し選択肢や情報が過多となることは、人の判断を改善させるというよりは悪化させる(Sheena Iyengar)。
 金融サービスなど複雑な取引では、事業者の専門的知見は、顧客の判断の重要な手がかりとなる。これは、顧客を取引に誘導する方向にバイアスがかかったものであり、必ずしも顧客の最大利益に叶うものではない。顧客の情報処理能力に適合しない量の情報や選択肢が提供されるとき、顧客の脳はオーバーフロー状態となり、合理的判断を司る領域が機能停止する。もはや顧客には、選択の適否、合理性判断は期待できない。
 人が、過度の情報や選択肢が提供された場合でも、「選択しない」という行動が取れればさして問題はない。しかし、たとえばリスクのある金融投資サービスで、外務員が説明の中に「ちょっとためになる」ような話が織り込んだり、有利な取引条件を出すことがある。顧客は、これにより、外務員に説明の時間を使わせたという意識や、恩恵を受けたとい気持から、その好意に応じなければ、という心理状態に陥りがちとなる。低金利が続く中で「資産運用に関心がない」と答える者は、そういないだろう。しかし、このような顧客の返答が、外務員の商品説明の中で発せられれば、それは、たちまち、勧誘対象商品への「興味・関心」へと転化させられる。容易に撤回できない「言質」として、顧客を自縄自縛的な心理状態に陥らせることになる(コミットメントと一貫性)。また、外務員が、さんざん取引のメリットを顧客に説明した後に、「でも、これはリスクも高いから」と引き下がり、勧誘を終えようとすることがある。そのような外務員の態度は、顧客に反発心を生じさせ購買意欲を掻き立てさせる(心理的リアクタンス)。取引に応じた顧客に対しては、外務員は顧客に、商品説明を受けたこと、自己責任で取引する書面へのサインが求められる。雛形を出して、文例も自書させることも少なくない。これは、顧客に、気が進まない取引であっても、説明を受けた上の自発的なもの、判断に誤りはないはずだとの認知に転化させる道具となる(認知的不協和)。このようなプロセスで、顧客は自ら積極的に「選択した」という心理となり、「選択しない」という判断の門が閉じられる。
 法制審議会で、民法(債権法)改正の作業が進む。検討対象の一つに情報提供義務がある(民法(債権関係)の改正に関する中間試案「第27」48頁)。提案は、一方当事者による情報提供の懈怠が損害賠償の対象とされるについて、一定の用件の枠をはめる。このような要件を外すべきとの意見が顧客・消費者側から求められる。
 人の情報処理能力や取引適合性は、知識・情報の蓄積や経験を経ることで徐々に改善する。ピアニストがピアノ音を聞いて活性化する脳領域は、そうでない人よりも平均して25%広いとされるが、最初から広いわけではない。適合性が不足するか、存しない中での過度な情報や選択肢の提供は、却って、人の判断を不合理なものとすることに繋がる。情報の提供もそれを処理する人の能力に適合的なものでなければならない。今回の民法改正は、周辺の社会科学・自然科学領域の知見に対し、あまりにも鈍感であることが気にかかる。