信楽列車事故訴訟を終えて

弁護士国府 泰道

 信楽列車事故は、平成3年5月14日に発生した。それから、12年が経つ。地元信楽町在住の中島治三郎・イト夫婦と一緒に信楽高原鉄道の列車に乗って事故に遭った孫の中島未晴ちゃんは当時まだ2歳であった。私の次男拓矢と同年である。拓矢はもう中学3年生で高校受験を目指したりサッカーに頑張ったりという充実した中学生活を過ごしている。その様子を見るにつけ、事故で短い人生を終えた未晴ちゃんとその両親の無念さを思わざるを得ない。12年というのは、まだまともに舌も回らなかった幼い子を中学3年生にまでした歳月であり、その間、遺族と弁護団も様々な経験を積んだ歳月でもあった。
 また、私は今年4月で弁護士生活満20年を迎えたが、その60%に相当する期間を信楽事故の遺族の闘いとともに歩んだことになる。
 お陰さまで2002年12月26日、大阪高等裁判所は、第1審に引き続いて遺族勝訴の判決を言い渡し、同月30日JR西日本が上告を断念し、判決が確定し、長かった裁判もようやく終わった。
 信楽列車事故は、単線上における正面衝突事故であった。その3年前、中国上海でも列車正面衝突事故が起こり修学旅行の高知学芸高校生徒が事故に遭遇した。正面衝突するとは何と安全システムのレベルが低いのかと中国に対して思ったが、高度な技術社会であるはずの日本で単線での正面衝突事故が発生するとはとても信じられなかった。
 事故当時、事故原因がよく分からず、遺族はなぜ家族が事故で死ななければならなかったのかといった千々乱れる疑問を押さえることができなかった。JR社長が、記者会見の場で質問に答えて「お詫びというのは、こちらが悪いことをしたときの表現。悪いか否か分からない段階で、お詫びというのはいかがなものか」と述べて、遺族らに対する謝罪を拒否したことなどから、遺族らは、JR西日本という巨大企業による事故隠しがなされるのではないかとの不安を覚えた。そこで、事故の真相解明とJRの事故責任を明らかにするために弁護団に委任することになった。弁護団は当初12人であった(当事務所では、田中厚弁護士と私が参加)。
 遺族と弁護団は、フルコースともいうべき実にいろいろな取組みを行った。そのために費やした時間やエネルギーも膨大なものであった。いくつか特筆すべきものを紹介する。
 その最大のものは、事故調査機関の設置を獲得したことであろう。遺族と弁護団は、1996年以降アメリカやヨーロッパへ事故調査の仕方などの調査に行き、独立した事故調査機関が必要なことを知った。そして我が国にも鉄道事故調査機関の設置が必要であると訴え、そのための運動や、外国の事故調査機関を我が国において紹介するなどの取組みを行い、ようやく2001年10月に航空機・鉄道事故調査委員会の発足により実現させた。その先頭に立ったのが、娘さんを事故で亡くした臼井和男さん(鉄道安全推進会議会長)であった。
 検察庁がJR関係者を不起訴にしたのに対して、検察審査会に不服申立を行うということもやった。審査会で委員に対する説明の場を設けてもらい(こちらは捜査記録がどんな内容か知らないのによくやれたものだ!)、「不起訴不当」の議決を勝ち取った。審査会議決書の記載内容から、刑事捜査記録の内容を一定推測することができた。
 事故列車保存の調停申立もやった。結果、事故列車は廃棄されたが、信楽駅に「鉄道事故資料館」を併設させ、そこに事故車両の一部を展示するなどの成果を得ることもできた。
 事故で亡くなった42名の犠牲者の思いが、私たちをさまざまな活動へ駆り立てさせ、また一定の成果に結びつけてくれたのであった。今の日本は、かけがえのない命を大切にする社会とはとても思えないが、その実現にむけてほんの少しでもお役に立てたのではないかといった自負をもてるようになった。
 これまで長い間ご支援いただいた皆様、本当にありがとうございました。