1.はじめに
前回固い法律関係のコラムを書きましたので、私も、読者諸兄も、肩が凝ったと思います。そこで、今回は、柔らかい話題の雑文を書くことにしました。何の役にも立ちませんので、お忙しい方は、お読みにならない方がよいと思います。
以下テンポがいいので敬体ではなく常体で書きます。
2.私の趣味
若い頃は、「趣味は何ですか」と聞かれて、人に言えるような趣味もなく、「読書、映画鑑賞」などと誰でもしているようなことを、口ごもりながら、モゴモゴ言っていた。
今は、幾星霜を重ね(私も今年で57歳)、続けているものとして、将棋、卓球、カラオケ、くらいかなと思う。いずれもそんなに本格的なものではない。
以下、それぞれの、経過と現状を書いてみる。
3.将棋
(1)将棋を始めた頃(10歳頃)
私らが子どもの頃には、テレビゲームなどなく、ましてやスマホなどもなく、どこの家にも将棋盤と駒があった。といっても、安っぽい木に「王将」とか印刷してある安価なものであったと記憶している。大人になって将棋盤や駒には、何百万円もするものがあると知った。私が弁護士になってから買った作者名(一平)と書体(錦旗)が王将の尻の面に彫られている4万円の将棋の駒は、彫埋駒。彫ったあとに漆を埋め磨いて凸部分がないようにしたもので、一見書き駒に見える。他に駒の種類としては彫り駒、盛り上げ駒がある。買った駒はツゲ製で、将棋盤に駒袋から出し広げると、カラカラと乾いたよい音がするし、椿油を付けて磨くといい色合いになる。
最初は、父や友人に教えられて、はさみ将棋や、山崩し、歩(ひょこ)回り等して遊んでいたが、小学校中学年くらいになると、「本将棋をやろう」ということになって、小学生向けの将棋の本(今は懐かしき大山康晴15世名人と升田幸三の対局姿の写真が掲載されていた)を親に買ってもらって、それを読んで、ルール、各駒の動かし方や、囲い、簡単な戦法を覚えて、友人と指していた。ここで、将棋教室や、道場に行っておけば、今頃は羽生善治か藤井聡太になっていたはずであるが、いかんせん私の周りにはそんなものはなく、ドングリの背比べのへぼ将棋をひたすら指し続けていたので一向に上達しなかった。小学校高学年で将棋クラブに入ってもレベルの低いドングリの背比べは続いた。私が一時期中飛車を覚えてそれを指したところ連戦連勝ということがあったが、そのうち受け方を覚えられてしまい、中飛車は、玉の囲いが金一枚分薄いので逆襲されると意外にもろいところがあり、又どっこいどっこいの勝率に戻ってしまった。
(2)中学時代(13歳~15歳)
中学は受験をして合格した大阪教育大附属池田中学に進学した。この学校では、休み時間や放課後であっても将棋をすることや将棋盤を持ち込むことさえ禁止されていた(非将棋3原則?)。しかし、将棋は、はやっていて、一部の男子は密かに将棋を指し、教師に見つかっては将棋盤駒を没収されていた。私もその1人である。ここでも、2人ほど少し強い人(N君とM君)がいた程度で、あとは相変わらずの低いドングリの背比べ状態。私の棋力は少ししか上がらなかった。ただ、大山康晴の「将棋に勝つ戦法」という大人が読むような本を自分で買って、穴熊四間飛車や、矢倉棒銀戦法や、筋違い角戦法などを覚えた。親友のT君とは数限りなく将棋を指したがお互いに新しい戦法を覚えるたびに勝率が行ったり来たりしていたが、切磋琢磨して棋力が向上するようなことは全くなく縁台将棋のようなものであった。
(3)高校時代(16歳~18歳)
高校も附属池田高校に内部推薦進学した。そこでは、将棋は禁止されておらず、何と将棋部まであった。入部し、そこで有段者の先輩と指したが全く歯が立たなかった。部長のK先輩は、将棋が終わると「感想戦しようか」と言ってくるのであるが、私は、自分がどんな手を指したか再現できないので困ってしまった。本当はきちんと感想戦をして、どこが悪かったのか、このとき双方はどのような手を読んでいたのか、別の手できたらどうしたのか、検討して、次の試合の糧にすべきなのであるが・・・
ここでも、棋力はなぜか全く上がらず、相変わらず低いドングリ仲間の親友T君と数だけは指していた。
そんな私であったが、将棋部にはよく顔を出していたので、部長になった。その任期途中に強い人が何人かいたので、何と、大阪府下の将棋大会で優勝してしまった。私がいたチームは1回戦敗退であった。
その頃の私の将棋を思い出すと、端にいる玉を、角、香、金の順で打って5手で簡単に詰められるもの(終盤によく出てくる形)を、その手順すら知らずに、角、金と打って端から逃げられたりしていた。
言い訳をすれば、大学受験の勉強のためと、将棋の勉強の仕方を知らなかったこと、身近に将棋教室がなかったことが原因であろうか。
(4)大学時代(19歳~24歳)
大学時代は、司法試験を受験し弁護士になることに精力をつぎ込んでいたので、敢えて将棋には近づかなかった。
(5)修習時代(25歳~26歳)
司法試験合格後の修習時代は、修習専念義務があり、法律実務の勉強で忙しかったので、将棋はたまに修習生仲間とする程度で、ここでも縁台将棋レベルであった。
(6)弁護士になってから3段取得まで(26歳~31歳)
弁護士になってからは最初の数年は、新しいことばかりで、事件をこなすのに精一杯で、将棋をする余裕などなかった。
その後、谷川浩司17世名人の終盤の手筋を解説した「光速の寄せ」、田中寅彦のテキスト、振り飛車や居飛車の手筋問題集、「羽生の頭脳」などを読んで勉強し、将棋に励む日々がやっと来た。ただ、道場に行くのは、なんとなく柄が悪い感じや他人と指すのは緊張することなどから行っていなかった。詰め将棋も少しは解いたが、分からなくなるとイライラするのと退屈なので余りせず、それが現在の終盤の弱さにつながっている。将棋に強くなるには、詰め将棋を解くこと、定跡を覚えて得意戦法を持つこと、道場などで実戦経験を積むこと、と分かってはいても、なかなか、それができないのであった。この頃の将棋の実戦は主に将棋ソフトと、始まりだした頃の通信対局であった。通信対局は接続が途中で切れたり相手が通信を切ったりすることもあり、対局数は余り多くなかった。ただ、平成5年7月に南森町にある当事務所に合流し、近くの天神橋筋商店街1丁目にあるW店のマスターKさんと仲良くなり、同店で週に2,3回将棋を指すようになった。マスターは早見え早指しの実力初段くらいで定跡にとらわれない力戦調。マスターは振り飛車ばかりやるので、私は田丸九段の急戦左美濃戦法の本を買って勉強しこれに対抗していた。星は4分6でマスターの方がややよかったように思う。
そんな私でも平成6年10月1日、日本将棋連盟から3段免状をいただくに至った。こう書くと立派なようであるが、その取得経緯はいささかいかがわしい。当時は、通常将棋教室・道場や将棋連盟の道場で実力が認められて、日本将棋連盟に推薦されて同連盟がこれを認めた場合に、段位が認定され免状がもらえる。しかし、私は、道場にも、教室にも行っていない。しかるになぜ3段免状をいただけたのか。その理由は、当時まだ弱かったコンピューター将棋にある。この頃、任天堂はスーパーファミコン向け「2段森田将棋」を発売した。私は早速購入した。この将棋ソフトに10秒将棋で勝ち、「次の一手」問題と、詰め将棋を解き、それを任天堂に送ると、将棋連盟に回付され、しかるべき免状(3段まで)がもらえるということであった。私は、10秒将棋で「2段森田将棋」に勝つことができた。私が勝てたのは、ひとえに、このソフトが、「垂らしの歩」の手筋を知らなかったからである。私は飛車先の2筋に何度も歩を垂らしてと金にして相手陣を崩壊させることに成功した。こうして私は日本将棋連盟から晴れて3段免状をいただくことができたのである。免状は桐の箱に入った巻紙に墨で書かれ、末尾には日本将棋連盟会長二上達也、名人羽生善治、竜王佐藤康光の署名押印入りの立派なものであった。私は額を買ってそれにこの免状を入れて掲げていた。この免状に恥じぬよう実力をつけなければならないと、心に誓ったのである。
(7)平成7年から現在まで
このころから弁護士会の将棋大会に出場するようになったのであるが、私は初対面の人と指すと必ず負ける(緊張してポカがでる)ので、ほとんど勝った記憶がない。それでも先輩弁護士のK先生が将棋の後、ご馳走してくれ、更には、新地の生演奏で歌うバーに連れて行ってくれたりしたという楽しい思い出がある。
平成7年、妻と一緒に名人戦を見に愛知県の温泉旅館「銀波荘」まで泊まりがけで行った。羽生名人対森下卓八段であったが、中盤の森下の角切りがやや無理筋で羽生が勝った。どうもこのときに妻は身ごもったようで正式に命名するまで胎児のことを私たち夫婦は「銀ちゃん」と呼んでいた。
平成8年には長男が誕生した。この年は、羽生が前人未踏の7冠全冠制覇の偉業を成し遂げた年で羽生ファンの私は嬉しくなって息子に羽生の名前を付けた(ただし字は変えた)。誕生後は、私も育児に協力し、また将棋の勉強からはしばらく遠ざかった。W店には相変わらず行っていたが、私は、初段と1級の間くらいの実力でマスターと勝ったり負けたりしていた。
この頃、中学で将棋が強く勝てなかったN君と将棋を指したが、私の圧勝であった。少なくとも、小中高時代のドングリよりは少しは成長したのだろう。
長男が小学生になった頃、近くに元奨励会二段のK先生の「子ども将棋教室」があることを知って、長男をそこに通わせた。それまでに、将棋の駒の動かし方くらいは、教えていた(子供用の動かす向きが分かる将棋の駒があった)。また平成13年の事務所旅行でタイに行った際に、将棋の小型版というべきマークルック(タイの将棋)を買って帰って、長男と指したりしていた。
長男は、「子ども将棋教室」で負けては悔しがって泣いていたようである。私は最初は、長男と2枚落ち(飛車角抜き)で指していたが、小学校の中学年までは長男はなかなかこれでも勝てなかった。そんな長男も、中学生になっても将棋を続けどんどん強くなり私に勝つようになり、大学では将棋部に入って、実力二段となり、私は到底勝てなくなった。
平成26年、スマホに買い換えて、長男から聞いた通信対局アプリ「将棋ウォーズ」をダウンロードして、現在は専ら、これで将棋を楽しんでいる。私のここでの10分切れ負け将棋(各自10分の持ち時間で持ち時間内に勝負がつかない場合先に時間を使い切った方が負け)の段級位は1級。その他には、たまに、W店、吹田の将棋道場や、福島区にある日本将棋連盟の関西支部の道場で指している。将棋は、スマホの通信対局は手軽だけれども、相手と対面して、駒を指すときの感触を味わいながら指すのがやっぱりいいと思う。
しかし、46年も将棋を指しているのに私の実力は1級と初段の間止まりとは、なんともなぁ・・・
つづく